たとえば

心の赴くままに描くエッセイブログ。

敏感過ぎる人生 〜HSPと共に生きる その2〜

 幼い頃から僕は自己肯定感が低かった。何故か怒られると、僕は心を深く深く閉ざしてしまう。幼い頃は特に何をするにも親の目を見ながら行動していた。今思えば、僕には反抗期という時期がなかった。しかし、決して親のことが大好きとか特別な何かがあったわけではない。

 

 ちなみに、本記事のタイトルにある「HSP」という言葉については前回の記事で軽く説明した通り、HSP(Highly Sensitive Personの略)は刺激に敏感に、そして過渡に受け取ってしまう体質のことを指し、発達障害でも病気でもない。そのため、誤解を与えてしまわないように、あえてこの記事では「HSP」という言葉はあまり使用しない。

 

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 小学時代、成績が悪いことを親や教師に叱られ、僕は「自分は存在すべきではないのでは」と思うようになった。普通の子供なら、叱られないように勉強を頑張るとか、または開き直って勉強せずに遊ぶことを選ぶだろう。僕は確かに勉強嫌いだったが、自己肯定感が低いが故に自分が“勉強ができる人間”だと全く思わなかった。そのため、いざ勉強をすると無気力状態に陥り、塾なんかに通っていた時は体調を崩してしまうことが度々あった。

 

 人間関係も円滑にはいかなかった。いじめ自体は大したことではなくても、「キモい」と一言言われただけでとても深く悩んでしまい、それが大きなトラウマとなり、それ以降の人生においての自信の無さに直結するようになった。さらに、中学時代はただテレビゲームが少し得意なだけで「オタク」呼ばわりされ、フォークソングが好きなだけで「じじい」やら「昭和」だとか批判された。そんな中で僕は、自分は変わった性格なんだ、と悲観的に思うようになった。頑張って「普通」になりたいと思い、かえってその思いが心を閉ざすことをさらに助長していた。

 

 高校時代から社会人になってから、そんな僕の「変わった性格」の結果、いじられキャラとして愛されるようになった。いじられキャラというのは、いじり側との信頼関係があって成り立つものだ。しかし、その信頼関係がボヤけていることが、ずっと僕の心を深く傷つけている。いじられの激しさが膨れが上がり、誹謗中傷を言われるようになったり、パワハラを受けたりもした。それは「いじり」ではなく、「いじめ」であったが、そこで自分は、はっきりと「No」を言えないことにも問題がある。でも、言えないのだ。だから、今、余計に心を閉ざすようになってしまっている。

 

 心は言葉で伝えないと伝わらない。心は他人から読めない。だから一番嫌いな言葉は、「空気を読め」という言葉。中学時代に「KY」と略されて流行った言葉だ。僕がいじられキャラになっている理由として、敏感さ故に「空気を読む」ということが逆に出来過ぎてしまっているのだろう。他人軸で物事を考え行動し、自分の心など無視して他人に伝えず、いつも悩みを独りで抱え込んでしまっている。

 

 だから、もし、僕に足りない事があるとしたら、自分の意思を自分の言葉で伝えることなのだろうと思う。そのために、自己肯定感を高めるように習慣を見直していくことが必要になるのだろう。

 

 閉ざされてしまった心は、少しずつ、無理をしないように治していきたい。社会で過ごす以上、僕にとって「自分のままで生きること」が最大の課題であり、それを解決するためには、自分を知ることが重要だと思う。自分がどのような時に、どのような感情を抱くのか、しっかり把握し、もし何かしらの刺激でネガティブな思考を生み出していると分かれば、それに対処していく必要がある。もちろん、無理をしない程度に。

 

 ちなみに、ネガティブな思考は決して悪いことではない。ネガティブな思考のおかげで危機管理能力が培われるのであるから、その特性はそのまま、ネガティブな思考の底なし沼に落っこちないように、ポジティブな思考ではなく、ポジティブな感情を外部から取り入れるようにしていけば良い。それは、自分の趣味でも何でも良い。趣味でも何でも楽しいことを行い、ポジティブな感情を取り入れる。それが対処法の一つだ。

 

 自分を否定してはいけない。自分を受け入れることが重要なのだ。つまり、自分は自分のままでいいのだ。