たとえば

心の赴くままに描くエッセイブログ。

優しくなるために悲しむ

 夢の中で叫んでいた。訳もなく。帰省して普段の疲れが一気出てきたのか、新年早々僕は風邪を引いて寝込んでしまった。起き上がることすら辛いほど、怠い身体を実家の布団で休めながら、僕は夢の中で心を吐き出すかのように声高らかに叫んでいた。

 

 目覚めた時、心は何故かスッキリしていた。喉の痛みもひいていた。胃の不快感もなくなり、身体も軽くなったような気がした。

 

 帰省して、僕は数少ない友人と酒を交わしながら、まるで傷をなめあうハイエナのように愚痴をこぼし合った。そこで、悲しみの中から笑顔を探す互いの時間を確かめ合うことができた。きっとこれから良いことがあるよ、と。

 

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(空が曇っていて初日の出は見ることができなかった)

 

 不思議だったことは、人は、どんなに暗い中でも明るい一点を見つけることができるということ。ある日の夜、友人とふざけて明かりが一つもない暗い浜辺までドライブをした。車を降りて、海に向かっていく。空は曇っていて星も見えず、月明かりすらない暗くて凍えた海だった。真っ暗な何もない世界だったが、暗い中でも雲のほんの隙間からもれている月明かりを見つけることができた。もしかしたら、人は、どんなに苦しいことがあっても、何かしらの幸せを見つけようとするものなのだろう、と思ったのはその時だ。

 

 苦しみを生み出しているのは、人。悲しみを生み出しているのも、人。それが真実だとしたら、社会は生存競争で仕組まれた自由に縛られた楽園なのだろう。その中で幸せが生み出される。悲しみってそのためにあるんだろ?と、問い掛けながら、人は悲しみを抱えて生きている。幸せの種が心に蒔かれている証拠は悲しみにある。悲しみがなければ幸せを感じることはできない。

 

 悲しみはいつか幸せになる。逆に幸せは悲しみになる。人間万事塞翁が馬である。そのように常に考え、自分の人生に思い上がりたくないという気持ちは、いつも僕を現実へと駆り立てる。まだまだおまえは甘いよ、と何処かしら声が聴こえるのはそのせいだろうか。眠ることさえ苦痛にさせてしまうほど、僕の心は甘えている。それがさらに僕を追い詰めていることが分かった。

 

 そのように僕の孤独に凍えていた心は、故郷の友人によって解放された。友人と話していて、混沌としている心のわだかまりが、少しずつ消えていくような気がした。友人はこんな僕を歓迎してくれた。だからこそ、僕は友人の幸せを大いに祝福するし、悲しみや苦しみによって形成される自らの優しさで、友人の心を癒していきたい、と僕は日本酒片手に強く思った。そのために、もっともっと悲しんで優しくなろう、と思った。

 

 そうか、優しくなるために悲しむのだ、と。