たとえば

心の赴くままに描くエッセイブログ。

また会う日まで今を生きる

 昔、思い出を置きて来た場所を訪ねた。その先に見える自身の汚れてしまった心を、癒してくれる酔い話の余韻に浸りながら、いっそ社会の表面だけ見て騙されながら生きていきたいと思うほど、僕は現実逃避を少しでもするために、故郷の夜景を目に焼き付けようとしていた。生きる意味を問い掛けることを知ってしまった少年は、その答えを求めながら、酔いつぶれ流される時の面影に逆らえないまま青年になっていた。

 

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(幼い頃の通学路。夜の凍えた静けさがより心を切なくさせた。)

 

 故郷の夜景を独り見ながら、ふと脳裏に「もう少し自分に力があったら、君を守れたのかな」という言葉がよぎった。凍えた潮風は、遠くのネオンをボヤけさせる。そんな景色の中で、すっかり想い出暮らしに心を酔わせている自分を、過去の自分が見たらがっかりするだろう、と、心が切なくてたまらなかった。

 

 別の人生があったかもしれないと、思う日は何度かある。それでも、今の人生が最適な道であると思っている。そのような能力が人にはあるのだと僕は信じている。人は「不安」を感じる。自分の身に何か危険を感じた時に出てくる感情だ。それによって、例え遠回りをしても人は最適な道を選ぶことができるのだと思っている。「今いる道は苦しい道だけど、あっちの道に行っていたらもっと苦しい道だった」と僕は思うようにしている。

 

 仕事や恋愛、病気など、思い通りにいかないことばかりで、いつもすぐに悲しんでしまう自分の心の脆さに絶望している。しかし、まだまだこれからも続く永い道のりが待っているのだから、今をささやかに楽しく生きようと思う。過去のこと、未来のこと、不安や不満など、心憂うことばかりだけど、今を生きることから始めようと思った。

 

 惜しんでいる暇はない。未来がどうなるかなんてわからない。だからこそ、今を生きることから始めようと思う。

 

 故郷をまた離れ、またいつか帰りたいと思う。しかし、また帰って来れるのかどうか分からないし、友人とも二度と会うことは、もしかしたら無いかもしれない。人生どうなるかわからない。それぞれの人生があり、喜びと悲しみのレールを乗り換えなら生きている。その中で亡くなる人生だってある。

 

 “人生”という名の各駅停車の電車に後ろ向きで座らされながら、車窓から過ぎゆく今を見つめながら、未来が今になって過ぎゆく。故郷に帰りたがる時、それは過ぎていった“思い出”という名の駅に戻り、自らの存在意義を問い直そうする時かもしれない。

 

 そこで、共に思い出を作り合った友人と再会し、過去の形跡を辿る。その中で感じた苦しみを愚痴り語り合い、今まで苦しい道を乗り越えてきたから、これからはきっと大丈夫だよね、と盃を交わし合って別れる。だから、何か辛いことがあったら、いつでも一緒に苦しい過去の形跡を辿るよ、と。人は孤独だけど、決して心は孤独ではないことを忘れないために、友と再会し、盃を交わすのだろう。

 

 また会う時、友に恥ずかしくないように一生懸命生きていきたい。一生懸命泣いて笑って、過去の苦しみや悲しみの意味を探し続け、きっと報われると信じて、未来へのファイティングポーズを崩さないように今を生きようと思う。

 

 またいつか、また会う日まで、今を生きよう。