たとえば

心の赴くままに描くエッセイブログ。

幸せのために孤独を選ぶ

 前回の記事で、今年は思う存分孤独になりたいと思い、それは自分にとっての成長のためだ、と書いた。

 

issing.hatenablog.jp

 

 何故そこまでして自分を追い詰めるのか。それは大学時代、僕はずっと独りぼっちだったからだ。高校時代の友人や恩師に期待されて入った大学の名門の男声合唱部では人間関係に馴染めず、音楽性の違いや技術的な理由で軽音部も途中で辞めて、音楽を諦めた。教育学部に入ったためとりあえず教員免許を取ろうとしたが、勉強が全くできず断念した。そして、推薦で入学したため母校に僕の大学の成績が知れ渡り、母校の恩師に散々怒られ、自信を失い、バイトする気力もなく、金銭的にも困窮し、とにかく下宿先の部屋に閉じこもる日々が続いた。誰も信じることができず、人と話すことすら怖くなり、僕は独りぼっちになった。

 

 もちろん、大学時代ずっと独りぼっちだったわけではない。僕にとって大学時代に出会った人々の中でこれからも大切にしたいと思う人が少なからずいる。こんな自分にささやかながら親しくしてくれた人がいたんだ、と、大学を卒業して気づいた。もっとあの時自分がしっかりしていれば、その人達ともっと楽しく付き合えたんじゃないかな、と思う。これは大学時代に関わらず、高校時代、中学時代に出会った人々に対しても思う。

 

 「幸せっていうのは失ってから気づくもんだよ」という言葉がある小説の台詞に書いてあった。例えば、好きだった人と別れた時、付き合っていた頃の思い出が沸き上がるかのように思い出される。その時になって初めて“あの頃”はとても幸せな時間だったと気づく。

 

 つまり、幸せとは失ってから気づくものなのである。もちろん、これはあくまでも幸せの一つの要素に過ぎない。幸せには様々な要素や形がある。しかし、この“失ってから気づく幸せ”ほど残酷なものはない。

 

 だったら、もっと、もっともっとこれから幸せになってやろう、と僕は思う。

 

 そのために僕は孤独になることを選んだ。とことん孤独になり、悲しくなり、寂しくなってやろうと思う。そうしたらきっとその分、人を愛することができるのでは、と思う。その結果、もっともっと幸せを感じることができるのではないかと思う。

 

 というのが、長年、僕が考えた出会いを作れない言い訳だ。つまり、これはあくまで僕が僕であるための言い訳なのだ。時折、日常で感じたささやかな幸せを誰かと共感し合いたいと思うことがある。その度に言葉では表せないほどの寂しさが僕の心を孤独に染める。

 

 しかし、僕はそれを自ら選び、受け入れた。そこが大学時代の自分との違いである。孤独であることは決して寂しいばかりではない。孤独だからこそ楽しいことだって沢山ある。それを見つけて、自分を磨いて、これから出会うであろう人々と、過去に出会った人々に対して、出会って良かった、と思ってもらえるような存在になりたい。それは決して好かれたいとか、認められたいとかではない。僕の大学時代のように、何かしら孤独に悩んでいる人々を支えたい。もし、あなたが独りぼっちになっても自分がいるよ、と、だから決して独りぼっちじゃないよ、と強く手を差し伸べることができる存在になりたいのである。

 

 だからこそ、思う存分孤独になりたい。孤独から様々なものが生まれてくる。孤独でない愛はない。孤独とは、人間本来の姿である。まずは、それを自ら選び、受け入れることから、自分の人生を、自分の存在を自ら受け入れていきたいと思う。

 

 寂しいと思った時、自分の中にそれだけの愛情があるのだ、と僕は信じている。